釣りは好きでたまに行くのですが、すぐに船酔いします、調たかしです。

今日は懐かしい友のお祝いに、玄界島まで行ってきました。ベイサイドから850分の市営渡船で。玄界島までは約30分で着きます。博多港には新造船のクイーンビートルが停泊していました。

 

 

 

 

 

 

15年前の320日に起きた福岡西方沖地震で玄界島は大きな被害を受け、住民の皆さんは本土へと全島避難しました。当時、民放記者だった私は、地震から2週間ほどが経った4月、避難先となった九電記念体育館で水産高校一年生(当時)の青年と出会いました。彼は故郷である玄界島のことを心の底から愛していて、「1日も早く島を復興させて帰りたい」「将来は島で漁師になりたい」と話してくれました。

青年のお父さんは、島の漁協にお勤めで、地震で壊れた島の港湾設備等の復旧にあたるため、わずかの避難生活ののち、難を逃れた島の自宅で「単身赴任」生活をすることに。島が大好きな青年は、平日は避難所から(後にかもめ広場の仮設住宅から)学校に通い、週末になるとお父さんが暮らす実家に戻り、親子2人で色んなことを語りあっていました。

この親子を主人公にしたドキュメンタリー番組を制作したことから、私は当時、週末ごとに島に泊まり込んでは、親子をはじめ島の方々に取材をさせてもらいました。以降、青年とはたまに連絡をとっていたのですが、彼は水産高校を卒業後、復興を遂げた故郷の島で漁師になっていました。

そして、この度晴れて、独立して自分の船を持つことに。「お祝いするけん、来てやらんですか?」と1か月ほど前に電話をもらったときから、ずっと楽しみにしていました。

 

 

 

 

 

 

午前11時半、数えきれないほどの大漁旗をなびかせ、はるばる平戸の造船所から万里の波濤を蹴って姿を現したるは「龍正丸」。思っていたよりもはるかにデカい船体。操舵するのはすっかり立派な漁師になったあの青年。胸が熱くなります。船名の「正」の字は彼のお父さんの名前から貰ったとのこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんせ、私も船のお祝いに出るのは初めてなもので、宴会があることは想像できるものの、一体何をするのだろうと疑問に思っていましたが

 

 

 

 

 

お祝いに来た人たちを乗せて島の港の外を一回りした後は、なんとも盛大な餅まきでした。

その後の祝宴では、青年本人はもちろんですが、旧知の漁師の皆さんともしっかり盃を交わさせて頂きました。写真は、食べきれないほどの刺身。

 

 

 

 

 

 

 

 

西方沖地震の後、本土に残ることを選択した人も少なからずいて、島の人口減少には拍車がかかりました。基幹産業である漁業を取り巻く環境も年々厳しくなっています。コロナ禍で飲食業全体の不振が続き、春先に大きく落ち込んだ漁価はいまだに低迷しています。

そんな中で、龍正丸のデビューは、明るいニュースだったんじゃないかと思います。子どもからお年寄りまで、みんなニコニコしていました。

 

 

 

 

 

 

今となっては古い友である青年は、これからの人生、きっと荒波に見舞われることもあるだろうと思うけれども、15年前と変わらず、真っ直ぐに故郷の島への愛を熱く語る姿を見るにつけ、どんな時化模様でも必ず乗り越えるだろうと、感じさせられました。

なにはともあれ、前途ある若き友のひとり立ちを祝し、また操業の安全を祈りつつ

大漁じゃあー!上潮じゃあー!

(さすが漁村。猫がいっぱいでした)