ロシアによるウクライナ侵攻をきっかけに、「核共有」に関する議論が活発になっています。

日経新聞が28日付で公表した世論調査では、アメリカの核兵器を日本国内に配備する核共有について「議論すべきだ」とする回答が79パーセントにのぼったとのこと。海外の事例では、NATO加盟国のドイツ、イタリア、トルコなどがアメリカとの核共有をしています。

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我が国で仮に核共有をする場合を想像すると、素人ながらに心配になることがいくつかあります。

一つは、近隣の核保有国からの偶発的な核攻撃を誘発しないかということ。1962年のキューバ危機では、旧ソ連がアメリカ本土と近いキューバ国内に核施設を建設していることが明るみに出たことをきっかけに、米ソ間で核戦争に発展しかねない緊張が生じました。

この構図を極東アジアに当てはめて、あえて我が国の周辺の核保有国の立場から日本の核共有を眺めてみたらどうなるでしょう。中国、北朝鮮、ロシアはいずれも自由主義、民主主義などの基本的な価値観を共有できていない国です。

彼らからすれば我が国がアメリカの核兵器を配備するということはとんでもない脅威であり、すなわちキューバ危機ならぬ「日本危機」という受け止めになるでしょう。核共有が実現すれば我が国は、戦術面で現在よりも数段レベルの高い安全保障環境を得ることができるだろうとは思いますが、その前段においてヒロシマ、ナガサキの悲劇が繰り返される不安はどうしても拭えません。

もう一つの懸念は、唯一の戦争被爆国として、国際社会に核廃絶を訴える説得力や正当性を、我が国が失ってしまうということです。今現在でも我が国は、アメリカの核の傘に入っているだけに国を挙げて明確な立場を取れないジレンマにあります。ある意味で核廃絶への賛否を巡る世界的な議論の縮図が日本にあるのだと思います。仮にその議論が核武装の一方に振れれば、世界的な核拡散競争を誘発するスイッチになりはしないかということを、漠然と恐れずにはいれません。

一方では核廃絶という理想を将来に向けて存続させるために、また一方では日本にさらなる戦争被爆を許さないために、我が国はジレンマの中で存立する道を選ばざるを得ないのではないか…というのが、最近の議論を見ての率直な感想です。

近年は各国が超音速兵器の開発にしのぎを削っていると聞きます。北朝鮮もこの分野では、実験を成功させているようです。人類の叡智はこと戦争に活用できる分野において次々と革新的な技術を生み出しているのですが、核を搭載した爆弾にせよミサイルにせよ、恐らくは何らかの電子技術によって制御されていることに違いはないだろうと思うので、無力化させる術はきっとあるんじゃないかと思います。ドローン兵器の無力化なんかは成功しているようです。

核兵器の無力化による事実上の核廃絶の流れというのは、あり得ないのかしら⁉︎などと考えを巡らせるのですが、一方でいわゆる大国が、全人類を何度も滅ぼすのに十分な核兵器を所持していることが抑止力になって、第三次世界大戦の勃発、つまりは子どもや女性をはじめとする無辜の民の大量犠牲が未然に防がれているという客観的な事実は、昨今のウクライナの戦火が外に広がっていないことからも明らかです。

核共有・核廃絶などという難解なテーマをあえてブログで取り上げながら、結局は私自身も答えを持っていないのですが、核兵器の使用が現実的な脅威として語られる戦場に世界中が固唾を呑んでいる現在の緊張状態が、まずはいち早く解消されることを強く願います。

ロシア軍は、ウクライナの首都キエフ周辺をはじめ多くの戦場で後退し、東部の戦線で成果を得ることにシフトしていると伝えられますが、まさか自軍を引かせた場所に核兵器や化学兵器を撃ち込んだりはするまいな、などと想像してしまうので、最近はニュースを見るのが恐ろしくて仕方ありません…。