福岡市議会に議席を頂いて10年、ずっと教育委員会を所管する常任委員会で仕事をしてきました。

2期目(4〜8年)の途中あたりからでしょうか、今日の表題にある「ブラック校則」なる言葉がちらほら聞こえ出したかと思っていましたが、下の写真の通り13日の西日本新聞朝刊の一面に校則についての記事があり、文中には「ブラック校則」の文字が。

この言葉に対してはずっとある種の警戒感を持ってきたのですが、いよいよ新聞記事でも見かけるようになりました。思い立って今日は、校則に関する所見を述べさせて頂くことにします。

私が何を警戒しているのかを説明するのには中学校の校則が一番分かりやすいと思います。

母校である福岡市立・梅林中学校の約30年前の校則を思い出してみているのですが…男子は髪をのばすならば季節を問わず刈り上げにせねばなりませんでした。女子は前髪が眉毛にかかるとやかましく怒られてましたし、風紀検査でスカート丈の詮議をされるときには、床に両膝をつかされていました。

他方で、下着の色に指定があったかどうかとか細かいことまでは覚えていないけれども、少なくとも癖のある髪の毛の子がいわゆる「天然」であることの証明書を出さなければならないなどという、記事中にあるような極端な事例は身近に聞いたことがありませんでした。

今になって思えばという話ですが、男子に関して言うと刈り上げスタイルへの統一は、最低1〜2ヶ月に1度の頻度で散髪に行くか、各家庭で髪を切ってもらう必要が出てくるので、頭髪の均一性は保たれるものの実は経済面でも効率面でも決してベストな規定ではなかったように感じます。

下着の色指定なんかも、仮にあったとすれば「他人から見えんとこまで決めんでよかろうもん」と思います。

かように、さまざまな観点から「正いとは言い切れない校則」または「必要性が感じられない校則」を捉えて、昨今柔軟な視点から見直しがはかられることに対しては異論はありません。

ただ私が懸念するのは、「ブラック校則」なる言葉が幅をきかせすぎることによって、本来ある校則の意義または校則が設けられていることの目的までもが見失われてしまいはしないかという、その一点に尽きます。

ブラック校則を問題視する議論では、上の写真にあげた記事の文中にもあるように「子どもの権利条約」が錦の御旗になることがよくあるように感じています。

「締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする(子どもの権利条約第12条)」との規定をもとに、「子どもは自由に意見を言える」「子どもの意見は尊重される」のだから、「子どもの意に沿わない校則」=「ブラック校則」は許されない、という論法が次第に幅をきかせてきたように感じるのです。

そうじゃないだろうと。

私見ですが、こと服装や頭髪に関する校則には仮に子どもにとって意に沿わない部分があったとしても、それには子どもたち自身の自尊感情を損なわないための重要な意義があると確信しています。

「制服は嫌だ」とか「髪型は自由じゃないと嫌だ」とか子どもたちが口々に言い始めたら、校則はなんでもかんでもブラック認定なのか。仮に中学校で服装や頭髪が自由になってしまえば、間違いなく起きるのは教育の場における経済的な格差の顕在化(或いは『見える化』)だと思っています。

ゆとりのある家庭の子どもは服装や髪型を大人社会の流行に合わせる一方、厳しい家庭の子どもは相対的にみすぼらしくなる。せっかく今は校則のおかげでわかりにくくなっていることがことさら明るみに出てしまう。こうしたことが多感な時期の子どもたちの自尊感情をいたずらに傷つけるであろうことは想像に難くありません。やはり子どもたちの身なりについては必ず一定の均一性というか、ここからここまでの範囲に収めなさいという制約を設けることが必要だと思うのです。子どもたち自身のために。

校則の見直しは社会全体のトレンドのようではありますが、強調されるべきは行き過ぎたものや実は経済的でないものなどを合理的な内容に見直す視点であり、生徒の身なりが華美になることを防ぐという校則の最低限の機能だけは守らなければならないと考えます。

こんな次第で、ブラック校則という言葉の喧伝が危ういことだと私は感じているのです。